今日のような小雨の降りしきる日だった。
春先の暖かい陽気が続き、突然降りだした雨。
こぼれんばかりに咲いた梅の花は、殆ど散ってしまうだろう。

あの時もやはり散ってしまったのだから。



ぬるり、と 獣のように



あれは二年も前の事になる。
私もいい加減良い年なのだから、身を固めろと良く言われる。
一人きりで今は亡き両親から受け継いだ家に住んでいるのだ。
何度か求婚された事もある。
頑なに断るうちに、どんどん時ばかり過ぎていく。


しかし、あの部屋はまだ、あの時のまま。
まだ甘い煙管の匂いが残っているの。


向かいの家に住んでいるおハル小母さんは、会うたびにお見合いの話を持ってくるのだ。
婚期を逃してしまうのは分かっているが、
今までどうしても結婚まで踏み込めなかった。


「あんな男なんて忘れちまいな。どうせ野良犬だったのだから」

これがおハル叔母さんの口癖だ。
私も忘れたかった。あの人のことなんて悪い犬に咬まれたと思ってしまいたかった。


でもこうして静かに降りしきる雨を、雨に打たれ散ってゆく梅の花を見ると、
どうしても貴方のことを考えてしまう。


彼は、人斬り狼と呼ばれていて、巷ではかなり有名だった。
金さえ弾めば人斬りを請け負う、そんな男である。

そんな危険な男と知り合ったのはいつだろうか。
しかし気付いたら彼は私の家に居座り、私と彼は恋仲になっていた。



「準備はできたのかい」

おハルさんは玄関口からちょこっと顔を覗かせて言った。
明日の挙式の準備である。
相手の人は吉兵さんという人で、将来性のある呉服屋の跡継ぎだ。
吉兵さんは人望も厚く、しっかりしていて、私達はとても気があった。
なによりも私を大事にしてくれる、そう、思えた。

「あとは明日だけです。色々ありがとう、おハルさん」



おハルさんが帰ってしまうと、何もする事もなくなり、ぼうっと縁側に座った。
梅の花が、散っていく。

梅はあの人の、倖途<ユキミチ>様の好きな花だった。

雨に打たれる梅の花。
優しく私を包み込む甘い煙管の貴方の匂いが蘇る。
もう決して戻らない匂い。




「俺の中にいつの間にか、ぬるり、と入り込んでいたんだよ。牙をむく獣が」

―――おかしいわ、ぬるり、なんて表現。

私が笑うと、眉を顰めた倖途様は、お前にはわからねぇさ、男のロマンだ、
そういって、微かに笑った。



倖途、貴方という人は戦がとても好きだった。
常に刺激を求めていた。
血を求めていた。
貴方の中の獣は眠る事を知らなかった。



「俺は、戦に行く」

止める事など出来なかった。
真っ直ぐに私を見つめるその瞳は真剣だった。
その途端、分かった。

嗚呼、この人は死に場所を探しにいくのか、と。
貴方を止めるすべを知らなかった。
端から、止めることなんて考えていなかったのだから。


「この梅も見納めだって言うのに、雨なんて降りやがって」


雨が止んだら行くと言った。


「行ってらっしゃい、倖途様」


そう言った私も分かっていた。
もうこの人は帰ってこない、と。

それから数ヶ月、彼のいた軍勢は全滅だと聞いた。
そして、一本の伝票が届いた。

人斬り狼の最期の知らせだった。



ぽた、ぽた、と、頬を雫が伝う。

どうしてかしら、雨漏りでもしているの?
二年越しの涙が溢れる。
帰ってこないと分かっていながら期待していたの。

吉兵さんは良い人だけど、
貴方以上に愛する人はもう居ないでしょう。

だって、

ぬるり、と 獣のように

私の心にも貴方が入り込んでいたのだから。



小雨は止むことを知らないようだ。
この様子だと、明日の朝には晴れるだろうが、梅の花は散るだろう。


あの時、雨が止まなければ貴方は行ってしまわなかったのに。

梅の花も、散らなければ良かったのに。

いいえ、

泣いて縋ってでも、止めれば、良かった。


行かないで、と一言、言えばこんな後悔はなかったのに。



今更な後悔が胸に溢れる。

そして、私は裸足のまま庭に出た。
小雨が静かに私を濡らしてゆく。
梅の木の幹を、気が狂ったように叫びながら、叩いた。

「散らないで、散らないでちょうだい。
なんで、雨なんて、降るのよ。

なんで、行ってしまったの?!!


ゆ・・・倖途様・・・!!」


泣いても喚いても、もう戻ってこない。
暫くそうして雨に打たれながら叩いていた幹を、抱きしめるようにして目を閉じた。


「もうこの梅の木もさよならね。私は明日結婚するんだもの」

優しく木を撫ぜると、あの優しい匂いがしたような気がした。

「さようなら、さようなら、さようなら・・・・・」


私は幸せだった。
彼と過ごした日々、
彼を想った愛。

さようなら、さようなら。


静かに落ちた涙は、雨と一緒に地に落ちてゆく。



「・・・・・」


ふいに、雨が止んだ。
頭上には赤い番傘が掲げられていた。



「・・・おハルさん?」

返事は無い。

「・・・吉兵さん・・・?」


そして、ふわっと後ろから抱きしめられた。
このぬくもりも、しっかりとした腕も。
熱い吐息も、荒々しい抱きしめ方も、知っている。

懐かしい。


大好きな、優しい煙管の甘い、甘い、匂い。


「よぉ、少し痩せたか?」


ああ、やっぱり。


「・・・・倖・・・途・・・」


擦れる声。雨音は随分遠くに聞こえる。


「なんでっ・・生きてるのよ・・・っ」


「生きてちゃ悪いか」


「私は、明日結婚・・・するのよ」


倖途はさも可笑しそうに笑う。


「何言ってんだよ、お前は俺のモノだろ」

「そんなの、勝手よ」

私を抱きしめている腕を緩めた隙に彼に向き合った。
彼は、変わってなかった。
その強い瞳も、有無を言わせない態度も。


「この梅の花も見納めだな」


雨に打たれ散ってゆく花。
見納めなのは花なのか、私なのか。
きっと、私とのけじめをつけに来たのだろう。
彼は獣。
決して誰にも飼いならす事は出来ないのだ。

赤い番傘を差した彼は、どこか淋しそうに笑った。


「迎えに来た」


「え・・・?」


彼は、優しく微笑む。


「今まで悪かったな。やっと迎えにこれたんだ。
ずっと連絡も出来なかった。
でもやっと見つけたんだ、俺の居場所を」


「お前も来るよな?」


群れに馴染まない彼は、
漸く自分の群れを見つけた。


私は彼のモノ。
答えなんて、はじめから一つしかない。


私はその胸に飛び込んだ。
嗚呼、この匂いだ。
私はずっと、待ち焦がれていたのだ。

涙が、溢れた。





夜が明けて、見事に晴れた。
快晴の雲ひとつ無い晴々とした陽気である。
梅の花は散っていた。


「お前さん、準備は――――!?」


おハルは向かいに住む女の家の扉を開けたが、
そこは静まり返っていた。

部屋の中からは、いくらかの服と金だけが無くなっていた。


机の上に、メモが一つ。


『ごめんなさい、おハルさん』


おハルは呆れたように溜息をついた。


「あの馬鹿」




たとえこの先何があろうと、私は貴方に従うわ。

誰が何と言おうが、私は貴方の傍に居る。

だから今はただ、貴方の腕の中に居させてください。

最期はきっと、貴方の手で。




その後、人斬り狼とその連れとして、
二人が指名手配されるのはそう遠い話ではない―――。




………

夜鵺様に捧げます。
ちょっと戦国チックで挑戦。
泣けるかどうか、はごめんなさい。
また踏んでくださいね。

雨月 クロ  up by 2007.03.02