「マリー」 誰かが呼んでいた。 でも姿は見えない。 霧のような白い靄が邪魔をして、何も見えない。 いや、違う。 眼を凝らそうとしてはじめて気付いた。 靄じゃない。目を瞑っているんだ。 でも、目を開こうとしても瞼が重くて開けない。 何か圧力でも掛かっているように。 「マリーマリーマリーマリーマリーマ」 何度も何度も繰り返し聴こえるその単語。 それは紛れも無い、わたしの名前。 優しく語り掛けるように?それとも叱りつけるように? でもその声には感情なんて篭っていなかった。 機械的に、只その名前は幾度も繰り返される。 「リーマリーマリーマリーマリーマリー マリーマリーマリ」 ――行かなくっちゃ。 呼ばれてる。わたし、行かないと。 でも瞼は開いてくれなかった。 身体も動かない。 何で?はやく、はやくしないと――。 瞬間、頬に鋭い痛みが走った。 1:Every day ぱっと驚いたように開いた瞼を、つぶらな瞳の少女は数回瞬かせた。 まだ状況が把握できていないようだ。 焦点が定まっていない目を擦り、ぼうっとしながら首を傾げる。 そのうち、宙を彷徨う瞳が寝台の傍らに立つ女の姿を捉えた。 女は右手を摩りながら冷ややかに少女を見下ろしている。 「・・・・ローレンス?」 その言葉が気に入らなかったのか、女、ローレンスは眉を顰めた。 「ローレンス”さん”って呼びなさい」 少女、マリーは虚ろな目のまま、こくん、と小さく頷くと、 寝台からのそのそと這い出て、ローレンスに抱きついた。 だっこ、の催促である。 「ちょっと、マリー何を」 「・・・・だっこ」 「寝ぼける?いい加減に――」 「ろーれんす、だっこ」 「だから、”さん”を付けなさい!ああ、もう離れて!」 やっとの事でマリーを引き離したローレンスは、呆れたように言った。 「もう、さっさと着替えてきなさい。伯爵様のお帰りよ!」 ぽかんと口を開けているマリーの頬をぎゅっと抓ると、 ローレンスは部屋から出て行ってしまった。 「ゆ、め?」 その言葉は完全に無意識に発したものであり、 マリー自身、何に対しての疑問か理解はしていなかった。 左頬に手をやると、軽く熱を持っているのが分かった。 どうりでさっきからじんじんと痛んでいたわけだ。 きっと呼んでも起きないマリーに痺れを切らし、 ローレンスが思い切り平手打ちを食らわせたのだろう。 いつもの事だ。 それにしても、まだ幼い少女に平手打ち、はどうかと思うが、 マリーはそうでもしないと起きないのは周知の事実である。 マリーは適当に選んだワンピースに腕を通すと、裸足のまま廊下へ出た。 ひんやりとした冷気が脚から伝わり、思わず身震いする。 その冷たさに、漸くマリーは意識がはっきりとしてきた。 長い廊下の先の階段は吹き抜けになっている。 一番下の玄関ホールにつながっているのだ。 階下を見下ろすと、玄関ホールには数人の男女の姿があった。 マリーは飛び跳ねるようにして階段を駆け下り、そのなかの一人に駆け寄った。 「伯爵!」 伯爵、と呼ばれた男はマリーの姿を確認すると、顔を綻ばせて彼女を抱き上げた。 その男は燕尾服にシルクハット姿で、歳は初老といったところだろうか。 しかし、すっと背筋が伸びた立ち姿は歳を感じさせなかった。 この男こそ、この城の主であり、マレウス家現当主、 J・マレウス卿である。 「マリー、元気にしていたか?」 マレウス卿こと伯爵は、嬉しそうにマリーの髪を指で梳く。 伯爵はマリーの事を本当の娘のように思っていた。 マリーという名前を彼女につけたのも伯爵である。 と、いうのも。 マリーはマレウス家の人間ではなかった。 伯爵は戦時中、この城の城下の廃街に捨てられていた赤子を連れて帰った。 それがマリーである。 当時の当主はまだ伯爵ではなかった為、マレウス家という高貴な一族に どこの子とも知れないマリーを受けいれる、という伯爵の行為はマレウス一族でも 一時騒ぎとなった。 伯爵は子を作れない体質だった上に、彼が既に正式な跡継ぎとして決められていた事もあり、 その子を彼の次期当主とするのではないか、とも噂されたことも原因のひとつだ。 しかし、マリーが女だった事。そして伯爵自身が自分の次期当主は親類の中から最も相応しい 者にするという意志ををはっきりさせ、マリーは伯爵の下で育てられる事を許されたのである。 「おお、そうだ。マリーに渡すものがあったのだ」 マリーを降ろした伯爵は、傍で控えていたメイドに指示をして 綺麗にラッピングされた小さな箱を持ってこさせた。 「我愛しの君に」 そういいながら茶目っぽくウィンクした伯爵はマリーの小さな手にそれを乗せた。 マリーはわくわくしながら箱を開けると、その中の物を掴んだまま、 飛びはね、玄関ホールを駆け回った。 「伯爵ありがとう!わあ、可愛いリボン!!」 マリーの無邪気な姿に思わず笑みがこぼれた伯爵に、そっとローレンスが近寄った。 「・・・政府の方からお手紙が来ています」 その言葉に伯爵は目を細めると、部屋に荷物を持ってくるよう使用人達に言いつけ、 そっと玄関ホールを後にした。 *** 飛び跳ねるマリーの肩に、ぽん、と置かれた白い手があった。 振り返ると、ストレートな銀髪をツインテールにした少女がいた。 透き通るような象牙のごとき白い肌、そしてマリーを捕らえる碧の両の眸は、 マレウス一族の特徴である。 歳は十代の半ば、もしかしたら後半といったところだが、 ツインテールに漆黒のシンプルなワンピース、腕には兎のぬいぐるみといった格好が、 彼女を幼く見せている事は確かのようだ。 「マリー、私が結ってあげる」 囁くように小さな声で言った少女の名はエリザベス。 マレウス家次期当主の候補の一人である。 「エリザ!戻ってきてたのね!」 おかえり、と元気よく抱きつくマリーに、彼女は ただいま、と小さな声で返した。 「エリザも伯爵と一緒だったのね?」 マリーの金色の髪を櫛で梳くエリザベスは手を止めて、 困ったように笑った。 「一緒だったわけじゃないんだけどね・・・」 「え、そうなの?でもエリザも今戻ってきたんでしょ?」 「今回は、元居た家に行ってたの」 エリザベスは一族の中からから厳選された、次期当主の候補である。 候補はそれこそ腐るほどいたのだが、 その中から厳しいチェックを受けて残った候補は、二人。 その二人は幼い頃から候補として伯爵の城を頻繁に訪問したものである。 数年前から本格的に候補としてこの城で暮らし始めたのだ。 「・・・マリー、髪、きちんと梳かさなきゃ駄目だよ」 「いつもはちゃんと梳かしてるのよ!でもね、今日はね、ローレンスが早くしなさいって!」 「マリー、ローレンスさん、呼び捨てだと怒るよ?だってマリーのお母さんのような人でしょ」 「でも、でも。ローレンスはマリーのママじゃないの。だからママって呼んじゃだめなんだよ。 それにね、家族には”さん”ってつけるのは可笑しいって本に書いてあったの!!」 マリーの言葉に、エリザベスはしまった、と思った。 マリーは歳の割にはとても賢かった。 自分が捨て子だったという事実や、自分の立場もしっかりと分かっているようだ。 ローレンスは確かにマリーの”母親”代わりともいえる。 が、決して母親ではないのだ。 伯爵の正妻でなく愛人という立場の彼女にはマリーの母親を名乗る権利はなかったし、 何よりも、まだ比較的若い彼女を”マリーの母親”という立場で縛り付けるのは酷だった。 「・・・はい、できたよ」 エリザベスはマリーが伯爵から貰った、深紅のリボンを彼女の頭で結んだ。 彼女の金色の柔らかい髪にそれはよく引き立っていた。 「ありがとう!」 手鏡を覗き込みながら喜ぶマリーに、エリザベスは心が痛んだ。 まだ幼い彼女に現実を思い知らせるのは辛すぎる。 それでも彼女が生きていくためには避けられない道なのだ。 「ねえマリー。私はマリーのお姉ちゃん、だからね」 マリーは驚いたように目を丸くしながら、 それでも嬉しそうに大きく頷いた。 「うん!」 その時、メイドの一人が、二人に「朝食の準備が整いました」と伝えに来た。 マリーはエリザベスの手を引きながら、満面の笑みで言った。 「行こう!エリザお姉ちゃん!」 その、「お姉ちゃん」という一言がとても温かくて。 エリザベスは思わず微笑んだ。 (こんな些細なしあわせも許させなくなる日が来るなんて、一体誰が決めたのだろう?) ←back by 070402 |